闘病日記

2001年1月22日(月)
 「次はブロンコ(気管支内視鏡)ですかね。」
 自分のCT像を見て、目の前にいる放射線科医に発した最初の言葉である。
 それから、しばらく頭の中が真っ白になった。
 そして、最初に浮かんだのは、日航ジャンボ機墜落事故で、家族に走り書きのメモを残した父親のことを伝えるテレビ番組だった。
 「あの人に比べたら、自分にはまだ時間がある。」そう自分に言い聞かせた。

 2000年末、南予(愛媛県の南西地方)で初のマルチスライスヘリカルCTが病院に導入され、わずか10数秒の1回の息止めでCTが撮れるようになった。
 「肺癌検診に威力を発揮しますよ」と宣伝し始めたところだったのに、まさか自分にその肺癌が見つかるとは・・・

 妻には、手術不能の肺癌の可能性もありうると伝え、泣かせてしまった。
 これから妻には苦労をかけることになる。すまない。

2001年1月24日(水)
 ブロンコ下に擦過細胞診施行。さらに転移の検査の予約をする。
 大学の教授に電話をし、後任人事について依頼をする。
 放射線科医である兄に電話をし、病気について知らせる。
 いずれ年老いた両親に病名を伝える時のことを考えるとつらい。

2001年1月25日(木)
 平常通り外来診察を行う。
 今後の予定がまだ決まっていないので、患者さんに話すわけにはいかない。
 「癌を知りながらいつも通りの診察をするなんて、ドラマの主人公みたいだな」と思ったりしながら診療を終える。
 姉と次兄には、メールで病気について知らせた。

2001年1月26日(金)
 折り悪く、父が食欲不振を訴えて来院す。
 検査して異常のないことのみ説明して帰す。
 外来患者のカルテに申し送りを記入して過ごす。
 入院患者さんに担当医交代について説明。
 詳しく事情を聞いてくる患者さんはほとんどいない。

2001年1月27日(土)
 細胞診の結果、非小細胞癌であった。手術不能なら死を意味する。
 呼吸器科の先生は手術可能だろうと言ってくださったが、内科医としての経験が、「この微熱と炎症所見はインオペ(手術不能癌)だ」と心の中でささやく。 
 最悪の場合を想定して準備を進めなくてはならない。

2001年1月28日(日)
 勤務先の病院のデスクを片づける。
 友人たちにメールで病気について知らせる。

2001年1月29日(月)
 自分で入院先への紹介状を書き、画像フィルムを用意する。
 こんな経験をする医師も少ないだろう。

 両親宅を訪ね、肺癌で入院することを伝えた。
 手術予定と伝えた。それ以上のことは今は言えない。

2001年1月30日(火)
 本日入院。思いがけず雪。
 とても静かな病院で驚いた。こんな静かな病院ははじめてである。
 同じ病棟に、私が紹介した患者さんも入院していたのであいさつ。
 「今日から私も患者です。」

 お世話になった先生方、親族、友人に葉書を出す。

2001年1月31日(水)
 とてもよく眠れた。体がとても楽である。
 仕事をしないということは、こんなにも楽なことなのかと実感する。
 今日から手術可能かどうかの検査が続く。

2001年2月7日(水)
 連日の検査で疲れ気味。
 脊椎に多発転移があり、手術不能癌であることが確定。
 来週から化学療法の予定となる。
 兄が来院。結果を伝えると涙。
 周りの人が泣くので、なぜか自分は泣けない。

 懐かしい友人たちからはげましのメールが次々と届く。
 うれしい。
 人生最後の目標に、ホームページ作成を思いつく。
 何とか実現させたい。

2001年2月8日(木)
 両親に手術不能癌であることを打ち明けた。
 母は当然泣いた。
 父は、「葬儀や墓はどうする?」と聞いた。
 さすがは我が父である。脱帽。

 高校の同級生がお見舞いに来てくれた。
 妻とは違う女性なので、若い看護婦さんが怪訝な顔をする。
 小指を立てて、「実はこれでね。妻には内緒に」と言うとうけた。

2001年2月9日(金)
 外泊。遺影用の写真を撮る。

2001年2月11日(日)
 勤務先のパソコンを片づける。
 生きがいだった医師としての仕事に復帰することはもうあるまい。
 寂しい。